A組 西原春雄先生 / 27年後の訓示

 西原春雄先生は、高校3年間継続して英語を担当したため、我々の学年は共有した想い出は多い。自由奔放な我々を、「独立自治」の精神に則り、一貫して生徒本意の活動を支持してくれた。
 5年前に退任、現在69才。悠々自適な生活を送る今、我々との想い出と、人生の訓示を、以下のように示してくれた。

ノリが良く派手で打てば響いた時代

 平成元年といえば、景気がよく華やかな時代だったこともあって、生徒たちも何かと派手好きな感じだった記憶です。
 この頃の生徒全体に言えたことかもしれませんが、非常にノリが良く、打てば響く感じでした。我々が活躍の場を提供すると、それに必ず応えてくれるような、そんな雰囲気がありました。
 勉強しない生徒も多かった時代で、どう勉強させるかには苦心しましたが、大学に進学すると、ゼミやクラブでリーダーシップを発揮しているという報告を受け、安心したものです。

残りの人生の準備を始めるとき

 45才を過ぎた頃から、ぜひ考え・取り組んでもらいたいことといえば、「自分の人生を、どう終わらせるか」についてです。少しずつ、引退後の人生も考え始めて欲しいと思っています。
 45才といえば、人生の折り返し地点を、少し過ぎたぐらいの時期、今こそ次の人生を考えるときです。
 今は会社などで中心メンバーとして働いていることでしょう。学ぶ・考えることといえば仕事・ビジネスに繋がることばかりではないでしょうか?おそらく、人生の終盤についてなど思い浮かばないと思います。
 それでも、少しずつでもいいから、準備してほしい。例えば趣味でもいいし、家族でもいい――、人生の終盤に、じっくり取り組めるものを、今から見つけていってください。

27年前の訓示(卒業アルバムより)

The days you have spent with here, The memories you have shared with us here, Will keep you young and your life memorable. Be young and grow, MY FRIEND, and discover life is an opening blossom―――Deeper color, Wider dimension, Opening, Opening.


★取材こぼれ話

西原先生とは高校3年間ぶっ通しで直接指導を受けたにも関わらず、ほとんど我々の代のこと忘れていました。覚えていた人は僅かで、その記憶もずいぶん曖昧。それでも、日本料理屋で行った会食・取材は、すごく盛り上がりました。

先生は退職されて5年近く経っていることもあって、今の明治高校について、どこか他人事のようでした。他人事っぽいのは昔っからという意見もありますが、やはり退職して関わりが薄くなると、人生の大半を過ごした場所でも、冷静に・客観的に見ることが出来るのでしょう。
自分も、かつて努めていた会社のことなんて、今ではすっかり他人事ですからね。

そのためか、当時の裏事情とか、けっこうブッチャケて教えてくれました(オフレコだけど、という枕言葉つきで)。

ちなみに西原先生は、明治高校赴任の際には、某D高校にも内定を貰っていたそうです。明治を選んだ理由は、「当時、明治高校は大学教授に昇格できる制度があってね、それが魅力的で・・・」だそうで、西原先生にも、そんな野心があった時代もあったんだと意外に思いました。
余談ですが、内定を蹴ったD高校からは超・怒られたそうで、おかげで東京外語大(西原先生の出身大学)からの採用は、しばらく見合わせるという話になったとか?
話を戻すと、我々が教えて貰ってたときには、先生からは昇進への野心は欠片も見えませんでした。それについて尋ねると「教頭になっても給料ほとんど変わらないのに凄く忙しくなるからね」という自然体な意見に、腹を抱えて笑いました。

力の抜けた「西原語録」は、まだまだありましたが、個人的に大いに笑ったのが、「調布移転に賛成か・反対か」の意見についてでした。西原先生は、もちろん反対派だったそうですが、その理由は至極真っ当。「だってウチから遠くなるじゃん、そんなのヤダよ」と。ちなみに西原先生のお住いは、埼玉県の草加市。
そして「賛成していた教員なんて、家から近くなる人や、影響少ない人だけだったよ」と続け、大いに笑わせていただきました。

我々の記憶はホントに曖昧でしたが、昭和晩年の頃の明治高校については、我々の前だったから、という状況を加味したにしても、わりと好意的でした。

先に『悪い想い出』について述べると、「ほんと勉強しないヤツが多かった」という話題が多かったです。勉強なしで点数を取ること・進学することには貪欲と切り捨てたうえで、試験範囲を少なくするために授業を進めない工作活動に呆れたなどの話題に続き、こんなエピソードを披露してくれました。
「君たちの学年だったかなぁ~。夜中の12時頃に進学について相談があるって家にやってきて、どうやったら大学に行けるのかって。こんな時間に来るのも非常識なんだけど、真剣だったから、ひと通り話して納得してもらって帰ることになったんだけど、さ。もう電車ない時間になっていたから、どうするつもりなんだって聞いたら『バイクで来てるから大丈夫』って。どんな頭の構造してんだか疑ったよ(笑)。お前、バイク乗ってたら大学進学の前に退学だろって」

『良いのエピソード』は、「ノリが良かった」ということに尽きました。ふだん大人しい生徒でも、何か役目を与えると期待に応える活躍をしてくれることを、しきりに話していました。
当時、クラス行事・学年行事・学校行事などの行事が何かと多く、遠足準備委員など軽いものも含めれば必ず「●●委員」を一度は経験したものです。そうした委員に任命されると、張り切って楽しそうにやってくれる生徒ばかりで、そこを「打てば響く」と表現していました。
そして、「それは大学に行っても同様」と続け、大学でクラブやサークルの部長や、ゼミ長になって張り切っているという声を聞いて、納得した時代だったそうです。

ちなみに、そんな生徒は平成に入ってからは徐々に減ってきた、とも言っていました。学校行事を面倒くさそうにやる人が増えてきて、乗ってこないのが寂しかったと語っていました。
「個々では盛り上がっているんだけど、全体で盛り上げていく感じではなくなってきた」と続け、その要因に「景気が悪くなってきたからかなぁ」「サラリーマン家庭の子が多くなってきたからかなぁ」とも、「ノリの良さがバブル期特有だったのかなぁ」とも分析していました。

調布に移ってからは、「バカ騒ぎがなくなったぶん、生徒は全然乗ってきてくれない。ノリが悪いというか、ちょっと恥ずかしがっているのかなぁ・・・」と言っていたのが印象的でした。もっとも、異性の前でバカ騒ぎするのは絶対モテないので、そんな雰囲気も、ちょっと納得します。

いずれにしても、27年も経って、先生と盃を酌み交わしながら話せるというのは、ほんとうに印象深いものでした。
(TANAKA Junji)